プロフィール~京極・出町FP相談の誕生~①社会人になるまで


 恥ずかしながら、3回に分けて自分自身の歴史を書いていきます。
 経緯等は3回目にまとめます。

 かなりの長文です。お付き合いくださる皆さま、本当にありがとうございます。
----------------------------------

 プロフィール~京極・出町FP相談の誕生~①社会人になるまで


 1977年5月、京都市上京区で生まれました。王貞治選手がホームランの世界記録を樹立した年です。私には妹が2人います。両親を含め仲はいいほうだと思います。
 どうやら物心がついたのが遅かったようで、子どものころの記憶があまり残っていません。ですので、唐突ですが小さいころから順に書き出してみたいと思います。


■幼少期

 幼稚園のときに交通事故に遭いました。従兄と追いかけあいっこをしていて路地から飛び出してしまい、軽トラックに轢かれました。幸い左足首が前輪に巻き込まれただけだったので、今も傷は残っていますが大したことはありませんでした。この事故は運転する立場になって本当に怖いと思います。だって、細い道でいくら徐行していたとしても、あんな感じで飛び出してこられたら間違いなくぶつかります。母親に抱っこされて軽トラックの助手席に乗せてもらいそのまま病院へ行きました。いつ思い返しても運転手さんには申し訳ない気持ちでいっぱいになります。足のケガだったので、幼稚園児だった私は回復しても歩くのを怖がったそうです。当時5歳で、妹は3歳と1歳でしたから両親は本当に大変だったと思います。3児の父になった今、改めて感じます。

 幼稚園のときに手術も受けました。目の手術です。乱視と近視があり、生まれつきよくなかったようで幼稚園からメガネ少年でした。手術をしたのは斜視でした。今も疲れてくると目が寄ってくることがあります。成長するにつれて徐々に元に戻ってしまったようで、中学か高校での再手術を勧められていましたが、日常生活に支障をきたすほどではなかったので今もそのままです。幼稚園の当時の記憶で「目の手術なのに、なんでハダカになるんだろう」という疑問が残っています(笑)
 中学2年生の冬休みにコンタクトレンズにしました。それまでメガネで0.4とか0.5だったのが1.0見えるようになり、驚愕の世界となりました。でも、慣れるまで乱反射して、晴れの日や特に体育館は見えにくかったです。ですので、視力のいい人には憧れます。

 小学校2年の冬に父方の祖父が亡くなり、祖母と同居することになりました。それまで住んでいた町内には同級生が4人ほどいましたので離れるのがさみしかったことを覚えています。といっても、同じ小学校区だったのですけれど。小学生のいつごろからだったでしょうか、3段ベッドで寝ていました。夏の1番上はとんでもなく暑かったです。
 小学校での思い出で強烈に残っているのは、ひたすらドッジボールが好きだったということ。放課後にはFくんと「特訓」と称して2人でひたすら投げて取ってを繰り返していました。同じ球技でもサッカーは苦手でした。でもドッジボールのおかげかキーパーが好きで得意でした。そういえば中学でも高校でも体育の授業でサッカーがあればキーパーしてました。中学のときに横っ飛びでPKを止めたことも、この記事を書きながら思い出してしまいました。Fくんは中学のサッカー部でスーパーゴールキーパーでした。Fくん、今ごろどうしてるのでしょうか。


■大学受験まで

 言葉で表せないくらい、幼稚園と小学校ではお世話になった先生方に恵まれました。幼稚園の先生のことは実はあまり覚えていませんが、嫌だった記憶が1つも出てこないので良かったんだと信じています。公立の幼稚園でして、年少のころの担任の先生が次男の通うようになった同じ幼稚園で園長先生として戻ってこられました。ものすごい縁です。今も「しゅんちゃん」って呼んでくれます(笑)
 小学校の中学年くらいから将来の夢は「小学校の先生」でした。ただ、それ以降はあまり意識せずいたこともあり、せっかく大学に進んだのに教員免許取得のための単位を取らずにすごしてしまいました。市立中学と府立高校では特徴的な先生方が多く、平和だったことは間違いなく感謝していますが、先生に対していい思い出があまりありません。

 いまだに引きずっている過去の栄光を1つ。小学4年からとある個人競技に取り組んでいまして、中学2年のときに京都市内でベスト16に入りました。このこと自体は大したことがないのですが、母数が400名超なので予選グループが4つあり、その1つで決勝の舞台を経験できたことが過去の栄光です。実力的には自慢できるようなことは何もないのですが一生懸命やりましたので、あの舞台は忘れられません。準決勝も白熱したので、2戦連続して会場(といっても単なる中学校の体育館)の視線を一手に浴びました。一挙手一投足に温かい拍手があり、高まった緊張感と集中力って得難い体験です。ちなみに団体戦では京都市内でベスト8に入りました。でも、あれって14歳とかなんですよね。それは引きずってはいけませんよね(苦笑)

 自分で書くのも何ですが、高校までは学校の勉強は得意なほうでした。受験勉強は気持ちの問題で苦手でしたが、基本的に授業も好きでしたので定期テストは得意でした。結果として大学には推薦入試で進学しました。いわゆる指定校推薦という「願書を出せば受かる」枠は取れなかったので、倍率3倍と言われていた小論文と面接による推薦入試でした。何を書いたのかはまったく覚えていませんが、父親の読んでいた日本経済新聞、高校近くの本屋で売っていたAERA、たまたま大きな本屋で見つけた朝日キーワードという本の3つを一生懸命読んで書いて小論文に備えた記憶があります。いま考えればちょっと偏ってますけれど。

 面接は越前屋俵太さんに似た人(後で知る教授)を含む面接官3人を相手に、これまた何を話したかまったく覚えていませんが、越前屋俵太さん似の教授が爆笑してくれたことだけは間違いありません。大学は自宅から徒歩10分以内だったので、小論文が終わって面接までの間、お昼ごはんを食べに帰宅した記憶もあります。
 改めて思い返すと、すごいとしか思えないのですが「○○大学に行くわー」程度しか親に言った記憶がありません。私立文系ですが4年間でそれなりの学費です。両親にはただただ感謝です。

 前後しますが、高校3年の夏に父方の祖母が他界しました。同居していたので、いつも家にいてくれたおばあちゃんが段々とがんで弱っていくようすが強烈に頭に残っています。最期は在宅で吐血して苦しんで逝ってしまいましたが、とってもまっすぐで本当に優しく、ご近所さんからも慕われていたおばあちゃんでした。私に期待してくれていたようなので、今の姿、特にひ孫の姿は見て欲しかったと思います。死に目に立ち会えたからこそ、その思いが強いです。


■大学生活

 大学では授業にはそれなりに出席していましたが、よく寝ていました。特に勉強しませんでしたので、高校までのような成績は得られませんでした。言い訳にしているのが周りの環境のせいだということです。中学や高校からいわゆるエスカレーターで進学してくる内部生のたくさんいる大学でした。幅を利かせて効率よく単位さえ取れればいい的なグループが影響力を発揮しているのを入学直後に目の当たりにし、すべてのやる気が失せてしまいました。人のせいにするのが得意なのは、もっと前からかもしれませんが…。今考えれば、そんなのほっといて自分のいいようにやればよかったのですが、当時はできませんでした。でも、何かが不安で授業にはかなり出席していました。寝ていましたが…(苦笑)
 だからこそ今の学生さんには勉強をがんばってもらいたいですし、がんばって勉強している学生さんは大応援です。ちなみに、1~2回生のときよりも3~4回生のときのほうが勉強しました。授業が楽しかった記憶が残っているのは3~4回生です。ただ、基礎的な部分を1~2回生で飛ばしてしまっていましたので困った部分も多く、今となってはほとんど何も覚えていません…

 そんな私の大学4年間の中心はバイトです。京都駅前シンボルタワーの地下にある昼は定食屋、夜は定食+居酒屋のお店で、接客と洗い場を大学の決まった高校3年の冬休みから大学4年の1月まで丸4年やってました。現在は改装されて広さも倍になり、しゃれた感じになっていますが、当時はカウンター11・テーブル2×2の小さなお店で、昼は料理人の社員2人とパート・バイト2人の計4人、夜は1人と2人の計3人でまわしていました。
 このバイトでの経験は間違いなく今の私を創っています。ひどいお酒の飲まされ方もしましたが(笑)、狭いながらも店の隅々にまでアンテナを張る視野、お客さんの対応の所作・言葉づかい、整理・片付けの段取り、何よりもメンバーを信頼して先を読み、いかにメンバーがラクに次の動作に移れるかの気遣い、チームとして動くことでその空間に入ってきた人(お客さん)がどれだけ居心地良い時間をすごしてくれるかなど、多くのことを学んだというか体感・実践できました。当時の中心的な社員さんやバイト仲間はもちろん今も交流があります。みんなとてもかなり個性的です。

 それ以外の大学生活は、文化部や体育系サークルをかじった程度で、家で映画のビデオを見るのが好きでした。基本的に外出は好きではなく、家が大好きでした。パートに出ていた母親に変わって家族の洗濯物を取り込んだり、掃除機をかけたり、近くの商店街に買い物(おつかい)へ行ったりしていた男子学生でした(笑)。恥ずかしながら大学時代の友人って実はあまり多くありません。最後に1つ付け加えるなら、多くの時間を共にしてくれた当時お付き合いしていた人に大感謝です。現在とても役立っている外交的な部分を形成する要素を与えてくれました。


■就職活動以降
 
 就職活動は流されるままでした。漠然と小学校の先生へのあこがれと、何か直接的に人の役に立てないかというありふれた考えと、生まれ育った京都で何かできないかと考えていましたが、せっかくの機会だからとたくさんの企業の説明会へ行きました。とはいえ、自分は社会に出て何をしたいのかまったくイメージもできていない状況でしたので、それはそれはことごとく内定には近づけませんでした。
 結果として、大阪本社の1000名ほどの企業と京都本社の100名ほどの企業から内定を得ました。確か6~7月ごろだったと思いますが、決まったのは当時としてはかなり遅いほうでした。どちらに進むかあまり悩んだ記憶がありません。父親が長年大阪へ通勤していた姿を見ていたことと、就職活動で何度も大阪を往復したことで、これが毎日は嫌だと思ってしまっていましたので京都の企業を選びました。この京都の企業は、確か1ヶ月ほど待ってくれた記憶もあります。いま考えるとすごいことですよね。ありがたかったです。

 内定から入社式までの時間では、自動車の免許を取ったことと、バイト仲間(男)と一緒に卒業旅行ということで初の海外、米国へ行ったことが印象的です。この旅行はスカイダイビングができるところ、というそれだけで即断しました。ロサンゼルス→ユニバーサルスタジオハリウッド→深夜バスでラスベガス→スカイダイビング→グランドキャニオン→カジノ→帰国って感じでした。
 スカイダイビングは一言。あれは落ちてません!飛んでます!!最高でした!!!日本でライセンスを取りたいと思って調べましたが、当時は北海道と静岡にしか見つけられず、費用の問題と卒業まで日数がなく諦めました。でも、それくらい楽しかった体験です。

----------------------------------

 「プロフィール~京極・出町FP相談の誕生~②8年間のメーカー勤務」へ続きます。