プロフィール~京極・出町FP相談の誕生~②8年間のメーカー勤務


 「プロフィール~京極・出町FP相談の誕生~①社会人になるまで」の続きです。

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 プロフィール~京極・出町FP相談の誕生~②8年間のメーカー勤務


■1社目

 2000年4月に就職した京都の企業(半導体の製造装置メーカー)では、こちらも言葉では表せないほどの貴重な3年半を経験させていただきました。当時100名ほどの会社で営業本部という所属でしたが、いわゆる”何でも屋”的なポジション。販売促進資料の作成や展示会、営業管理、各書式の管理等、各部門との調整役が中心でしたが、時には装置を使った実験的なサンプル作成も対応し、来社実験に来られた全国の有名企業の開発担当の方々の対応もしていました。各部門との潤滑油的な存在でもあり、入社から年数が少ないながらも各部門の方々をつなぐ飲み会を開いたり、もちろん仕事を調整したり、本当に楽しくやりがいのある仕事でした。
 もちろん若造でしたので、長くおられるベテランさんに嫌がられたときもありましたが、守ってくださる先輩方のほうが多かったので本当に嬉しかったです。特にY先輩にはお世話になりました。10歳も離れている私をほんとかわいがってくださいました。また、2年目くらいからほぼ野放しで自由に仕事をさせてくれた当時の上司にも感謝しかありませんし、現在も交流が続いていることが嬉しくてたまりません。4名の同期とも仲が良く、旅行もしましたし、全員の結婚式にも行きました。家族ぐるみの付き合いは生涯続くでしょう。

 2000年の秋、母方の祖母が亡くなりました。肺の機能が弱って在宅でしたが酸素注入のようなのを長く鼻につけていました。こっちのおばあちゃんも家が近く、自宅から徒歩3分くらいの距離でしたので、ほんとかわいがってもらいました。最期は病院で、仕事が終わってから駆けつけたのですが少しして急変し、ちょうど近づいた私の手を取ってシャツをつかみ、数十センチの目の前で息を引き取りました。死生観というと大げさかもしれませんが、死に対する考え方を持つきっかけになった気がしています。


■転職活動と結婚

 そして社会人4年目のはじめ、とあるきっかけがあり自分自身の社会的評価を知ってみたいと思いました。世の中における自分の価値ってどうなんだろうって思いました。大手人材紹介会社に登録し、何事も経験だと思い、アドバイザーさんと何度か面談をしました。新卒では一般的に営業職、開発・技術職、事務職が多いなか私の”何でも屋”の経歴は珍しかったようです。担当さんも楽しんでいくつも転職情報を提案してくださいました。
 その中で1つ子どものころの夢だった学校教育に関わるメーカーでの企画職があり、話を聞いてみたいと思いました。このときはあくまでも転職ありきではなく、他の会社の話を聞いてみたかったのです。そして面接へ行き、人事担当さん→入社後に上司となる方々→社長、と3回の面接を経て内定をいただいてしまいました。子どもたちと接する教育への想いがこんなにも自分の中にあるんだと自分自身が驚いた機会でもありました。

 退職・転職する人を引き留めないと有名だった1社目の社長が、私個人に対して会社として国内MBA取得の提案をしてくれたときは嬉しさと腹立たしさが両方ありました。以前から若い社員にチャンスを与え、それを評価してくれる環境だったなら、他の情報を知ってみたいと思い浮かばなかったかもしれないからです。私と同世代もしくはさらに若い世代に対して、その環境を整えて欲しいという強いメッセージを残して新しい道へと進みました。
 ちなみに、その後2名が国内MBA取得したそうです。うち1名は私のポジションを引き継いでくださったMさんです。これからもがんばってもらいたいです。書き忘れていますが、転職にあたっては決断前にもちろん上司に相談しました。そこでの内容は書けないですが、あのときのやり取りがあったからこそ、今の関係があるのだと思います。
 
 2003年10月より勤務となった転職先はいわゆるIT系企業であり、売上の1/4ほどを構成する教育系ソフトウェア事業部の商品研究部に配属となりました。

 転職活動を始める前から決まっていた結婚式が転職から1ヶ月半後の2003年11月に。ちなみに妻は元いた会社の同僚(後輩)です。男(私)が結婚退職したカタチになりました(笑)。
 飲みに行ったり遊びに行ったりしてる年の近い10人の仲間がいまして、その中でつかまえてしまいました。なれそめは内緒にしておきます。ご興味ある人は直接聞いてください(笑)。その仲間は2009年には全員結婚し、2012年には全員が親になりました。今も年に一度は集まれるような企画を誰かが作っていますが、なかなか小さい子どもがいると全員は集まれないですね。子どもがそれなりに大きくなれば、集まれる機会も増えそうです。
 そうそう、小中高大と新卒で勤めた企業も地元京都でしたから、自宅(実家?)から出たことがありませんでした。結婚する2ヶ月半前(転職する1ヶ月前)に新居を借り、約2ヶ月ほどだけ1人暮らしをしました。さみしいとか、家事が面倒だとか特に感じず、ほどほどに楽しんでいた記憶があります。転職・結婚準備と同時進行での1人暮らしでしたから、のんびりできた記憶はないです。ちなみに場所は、西洞院通松原の近くでして、2005年はじめまで約1年半ほど暮らしました。


■2社目、長男誕生

 さて話を戻しますが2社目は、新たな生活環境、新たな職場、新たな仕事、そしてトントン拍子に得た内定と転職による年収増により、26歳の私は自信過剰気味だったと思います。まったくわからないIT用語と教育用語、100名企業から1000名企業へ移ったことで初めて知る厳格な組織のルールや立場。
 それから4年後の退職間際に聞いた情報によると、私が入社するまで15~20名の選考があり、ことごとく採用に至っていなかったということでした。所属した当時の部署は管理職3名のスペシャリスト集団で、そこに活きのいい若者を1名入れるってことになっていたそうです。おめがねにかなう人材がようやくいた!ということになっていたようで、ものすごく期待度が高かったそうです。
 確かに活きはよかったかもしれません。でも、何事も石橋をたたきまくって渡る私でしたのでスピード感がありませんでした。IT企業でしたので一番求められていたのはスピードでした。それに気づけたのも入社してしばらくたってからです。

 最初は上司と一緒に、数ヶ月も経つと1人で全国へ出張しました。北は北海度から南は鹿児島まで。移動で寝られるとか本読めるとか「出張は自由やし、ええやん」って言う人がおられますがまったく違いました。移動中も資料チェック、パソコン開いて作業のオンパレードで、おかげさまで新幹線はもちろん各特急電車はほとんど嫌いになりました。いまだに東京へ行く新幹線にもあまり乗りたくありません。約2時間半が苦痛です。
 私なりにがんばったつもりです。ただし、やればやるほど組織の大きさの前に立ちすくんでしまい、どんどん殻に閉じこもっていった気がします。前の会社でやっていたような各部門をつなぐような役割も必要だったと思いますが、気後れしてまったくできませんでした。そうして通勤が痛勤に変わりました。意識を遠ざけるために本ばかり読んでいました。当時買った本が本棚にたくさんありますが、ほとんど頭に残っていません。単なる現実逃避の道具だったようです。

 仕事はやりがいがありました。全国の小学校・中学校・高等学校・教育委員会へ行き、授業を見て実際の使われ方をまとめて、社内の関係者へ報告するのも1つの仕事でした。学校での具体的な活用のされ方をまとめた内容は特に開発メンバーは喜んでもらえていたようです。学校で使われる用語、保護者や子どもたちに配慮した表現などは特に気をつけました。その視点で、パンフレット、広報誌、取扱説明書の内容チェックや校正ではおかげさまで頼りにしてもらっていました。現在、ブログやコラムや各種原稿を書くときの表現方法や校正の力は間違いなくこのときに養われました。このことは感謝の言葉を見つけるのが難しいほど本当にありがたい経験でした。

 2005年7月に長男が生まれました。上司の配慮もあって立ち会うことができました。妻は予定日の約1ヶ月前から実家(同じ京都市内)へ帰っていまして、陣痛の気を感じてお義母さんと一度産婦人科へ。しかし、弱いということで一旦帰宅。そこから数時間で再度病院へ。ここから産まれるまで40時間かかりました。
 ちょうど台風の近づいている時期で、お産の多かった日でした。強い産気のあった深夜、助産師さんの手が回らず対応が間に合わなくて伸びてしまったところもありました。ずっと腰をさすったり(こすったり)、お尻を押さえたり、私のほうがグッタリ…(すみません)。いい経験をさせてもらいました。当時の写真を見ると私も妻も若い!はい、ただそれだけです。
 長男は1人目ということで何か特別な気がします。次男や長女と区別しているつもりはありませんが、夫婦2人のときに唯一1人の子どもだったので何か特別な感覚が残っています。生まれたころからずっと父(私)にそっくりだと言われ続けている長男です。私の子どものころの写真を見ると、まるで同じです。そして、その写真に写っている私の父が今の私とまるで同じです(笑)


■異動と退職、次男誕生

 さて、転職して3年が経過したころ事業部再編があり、企画職からは私が選ばれ管理系の部門への異動が決まりました。ちょうど優秀な新卒Aさんが配属された年で、半年も面倒を見られませんでしたので、それだけが不甲斐なかったです。Aさんも今は違う道を進んでいますが、本当に優秀で今も付き合いがあることが嬉しいです。
 ちなみに、この少し前から体調が芳しくなく、自律神経失調症になってしまっていました。具体的な症状までは書きませんが、なかなかつらかったです。出張の無い日は、朝6時半に起床し7時半に出発、定時17時半を過ぎれば早々にタイムカードを押して帰路へ。夕食と子どもの風呂を済ませてからPCを開けて仕事開始。そこから終了がおおよそ26時か27時で、土日も自宅もしくは外出して仕事することが多かったです。いま思えば原因は勤務時間の長さよりも気持ちの部分だったとは思いますが…。
 異動先は、労務資料の管理、社宅の管理など総務的な部署で、このときには自宅を7時前に出発し、平均的には21時ごろまで仕事していました。語弊があるとまずいですが、これまでの部署に比べ社内での拘束時間は長かったですが、頭が空きました。企画職では起きてから寝るまでずっと頭が休まりませんでした。でも、この部署は会社を出れば頭が空きました。ここで出会ったのがファイナンシャルプランナー(FP)です。通勤、始業前、帰宅後などで勉強しました。

 2007年6月に次男が生まれました。このときも部署の配慮をいただき立ち会うことができました。妻は長男を連れて実家へ戻っていましたので、毎朝コンビニで「栄養バランス弁当」を2つ買って出社していたことを覚えています。1つはお昼に、もう1つは定時後に食べていました。で、ここぞとばかり残業して書類の山と格闘していました。
 次男は妻に似ています。妻の子どものころの写真にそっくりでした。2人目となると育児もいい加減なもんで、長男のときには育児本を読みながら、この時期にはこれをして、この時期まではこれはしてはいけないなんて、きっちりやってましたが次男にはほぼ適用されず(笑)。次男は長男とはひと味違う雰囲気を持って育っています。

 そんななか、さまざまなことが重なって発生しまして、次のステージに進もうと決心し、2007年9月に退職しました。次男の生まれた3ヶ月後です。不幸自慢にはしたくありませんし、褒められることではありませんが、正直に言いまして自分が弱かったです。強い方々の揃っている会社に追いついていけませんでした。
 退職後しばらくして妻が言ったのは「夜うなされなくなってよかった」。在職中、起きてるときは休みの日の多くもパソコンに向かっていて、ようやく寝てると思ったら常にうなされていたそうです。うなされなくなったことだけで、とにかく安心だと言っていました。何度も書きますが不幸自慢をしたいわけではありません。人生には没頭するときや苦しいときがあって当然なんだと思います。そして、それらの経験で将来役に立たないことは1つもないんだと信じています。私はあのときの経験に感謝していますし、こんな私にチャンスを与えて続けてくださっていたにも関わらずチャンスから逃げ出してしまい、経営者さんには本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

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